【 どっきんばくばく編 】
「ん…」
 カーテンの隙間から漏れ出る朝日が顔に射し、バクラは覚醒しました。昨夜は街でひと暴れし、帰ってきたのは朝方でした。しかし、就寝前には宿主である獏良くんに躰を任せたはずでしたが……。
「…何だ、宿主。面倒だなッ」
 ちっと舌打ちをしてバクラはベッドの上で寝返りを打ちました。時計を見ると、今までのデータに拠ればそろそろ童実野高校への登校の準備をしなければいけない時間でした。ふん、と鼻息を出してから、バクラは上半身を起こしました。宿主の為に ―― 周囲の人間に怪しまれぬ為に、獏良くんを装って童実野高校へ登校する事にしたのです。
 そこでバクラは、獏良くんの躰が硬直するのを感じました。獏良くんの躰に宿っているのは中々心地好く、今では自分の肉体で生きているような感覚さえある、この躰が。
「おいおい、疲れてんのかぁ?」
 バクラは後ろ頭の髪を掻きまわして呟きました。ああ、ファン・クラブも出来てしまうくらいの美形の獏良くんのロング・ヘアを……。
「…何だってんだ」
 確かに、今朝は獏良くんの躰に宿った人格であるバクラが覚醒したのです。しかし、何という事でしょう。バクラの隣には、獏良くんが寝ているではありませんか。すやすやと安心しきった子供のような寝息を立てています。
「こりゃあ、どういうこった」
 バクラの意識は驚くべき出来事に明瞭になりました。こんな体験は初めてです。どうしたら良いのかちっとも名案が浮かびません。尤も、混乱によってまともな思考が出来ているとは言えませんでしたが。
(ひょっとしたら、アレか? ただオレ様がはっきりしているように見えるだけで、ちゃんと宿主が躰を繰ってんのか?)
 そう思ってバクラは獏良くんに呼びかけてみる事にしました。
「おい、宿主。起きろ」
 肩の辺りを掴んで揺すってみる事にしました。
「…んん」
(…どういう事だ。触ってんじゃねぇかよ)
 まさか、自分で、別の肉体で宿主の躰に触れるとは。いや、確かにバクラは獏良くんの躰をしています。という事は、ここには獏良くんの躰が二つ存在している、という事で……。
「おい、起きろ!」
 バクラは獏良くんの白いすべすべのほっぺたを、ぺちんと叩きました。きっと、こんな非常時に一人では心細かったのでしょう……、これはここだけの秘密で。
「いったいな〜!」
 獏良くんはぱっちりと眼を見開きました。
「ボク、疲れてるんだから。本田くんってばもっと寝かせてくれてもいいでしょ! 城之内くんだってまだ寝てるんでしょ!?」
 むくりと上半身を起こして獏良くんがまくし立てました。
「……あ、れ? ボク?」
 獏良くんは一瞬後にぽかんとした表情になり、本田くんじゃない、と呟きました。
「お前、うるせぇんだよ…」
 耳の穴に指を突っ込んだバクラが獏良くんを睨みました。
「だれ? ボク? 怖い顔…」
 獏良くんはまじまじと目の前の自分とよく似た人の顔を覗き込みました。大きな瞳が瞬きを繰り返します。バクラは獏良くんの顔が近付いてきて居心地が悪くなったので、胸を反らせるように腕を組みました。何せ、自分と同じ顔で、大きな瞳の純粋な顔なのです。獏良くんに借りている身とあっても。
「オレ様はバクラだ」
 バクラは溜息混じりに言いましたが、あまり見るな、とは言えませんでした。
「…バクラ?」
 一度、友人一同酷い事に巻き込まれたので、獏良くんは訝しい表情で訊きました。
「そうだ。だが、オレ様もちょっとばかり改心ってやつをしたんでね」
 にやりと笑ってバクラが応えました。
「……相変わらず怖い顔だね」
「あん?」
 何でもない、と言って小さく溜息を吐いた獏良くんは、上目遣いにバクラを見上げました。
「だから、何だよ」
 獏良くんはおもむろに手を伸ばし、凶悪な面構えのもう一人の自分の髪を掴みました。
「信用出来るの」
 ぐいぐいと髪を引っ張られてバクラは顔を顰めました。
「そりゃあ、するもしねぇもお前次第だな」
 触覚の様に逆立った髪を掴み直して、獏良くんは尚も引っ張って言いました。
「これ、ボクの躰なんだから」
「…承知してますよ、宿主様」
(やれやれ、とんだ宿主だな)
 バクラは密かに溜息を吐きました。
「寝てよ、バクラ」
「あ?」
「ボクが疲れてるの、バクラの所為なんでしょ。寝て」
 むん、と下唇を突き出して獏良くんが言いました。
「ああ?お前が疲れてんならお前が寝ろよ。…あ、お前はガッコか」
「疲れてるから行かない」
 ぶっきらぼうに言って、獏良くんはバクラをベッドに押し倒しました。
「…おい」
(こいつって、こんな我儘だったか?)
 睨むようにして、バクラは坐ったままの獏良くんの顔を見つめました。獏良くんは一度バクラと目線を交わすと、仰向けのバクラに倒れ込みました。
「重いんだよ」
「…いいの。これは、ボクの躰なんだから……」
 暫くすると、すうすうと寝息が聴こえてきました。もう一つの体温に安心して、すぐに寝入ってしまったようです。バクラは胸に獏良くんの暖かい息を感じてちょっと擽ったくなりました。
「変な宿主だな…」
 バクラはすう、と鼻から息を吐いて瞬きをしました。バクラも睡眠時間が足りていません。おまけに躰の上には規則的に呼吸を繰り返す宿主の獏良くんの躰が乗っていて、さっきまで意識がはっきりしていたのに眼がしぱしぱしてきました。
「オレ様も…ちょっと寝るか」
 バクラはゆっくりと瞼を閉じました。獏良くんに誘われるように、眠りに入っていきました。

―― グッド・モーニング? お二人さん。


「んん…」
 次も、バクラは覚醒しました。隣を見てみると、今度は獏良くんの姿はありませんでした。
(戻ったのか?)
 バクラは指を開いたり握ったりしてみました。キッチンから食器のぶつかる音が聴こえてきたので、バクラはまだ元の状態に戻ってはいないのだと解りました。キッチンに向かうと、紅茶を淹れる準備をしている獏良くんの背中が見えました。
「…あ、バク ―― ッ!!」
 気配に気がついて獏良を振り返った獏良くんは、急に吹き出しました。勢いよくテーブルにカップを置いたので、ガチャンという大きな音がしました。獏良くんは肩を震わせて笑い続けています。
「おい、何だよ。…それ、割れなかったか?」
「ぷふ、だって、バクラ、くふっ。…! ……!!」
 息も絶え絶えといった様子で笑い続ける獏良くん。とうとう拳でテーブルを叩き始めてしまいました。
「…だから、お前、何だっつうんだよ」
 バクラは寝起きという事もあってちっとも獏良くんの笑いの元を推測出来ません。
「だってぇ…! んぐっ!! けほっけほっ」
 獏良くんはあまりにも笑いすぎて噎せてしまいました。
「大丈夫かよ…」
 バクラは呆れ気味に椅子の背を引き寄せてテーブルに着きました。爆笑しながら獏良くんもテーブルに着きます。
「いいのか、あれ」
 獏良くんの背後のケトルを指差し、バクラはまだ肩をひくつかせている獏良くんに訊ねました。
「…いい、いいから。ね、それ、ぷっ。似合うね…!」
 バクラを指差して獏良くんが笑いながら言いました。
「…あ?何かついてん ―― ああ?何だこりゃ」
 バクラが顔をぺたぺたと触り、髪に触れた時、指先に何か滑らかなものが触れました。引っ張ってみると、赤い幅の広い紐が見えてきました。
「ぷふっ!」
 獏良くんが口に掌を当てて吹き出し笑いで肩を震わせています。バクラは勢いよく立ち上がり、バスルームへ駆け込みました。
「…何じゃこりゃあああ!!!」
「ブ ――!!」
 一呼吸置いて獏良の絶叫が聴こえ、獏良くんはつい吹き出してしまいました。ととっと小走りでバスルームへ向かいます。
「おい宿主ィ…」
 獏良くんがバスルームに首を突っ込むと、バクラがゆらりと振り向きました。怖いです。はっきり言って、今までにないくらいに恐ろしい顔をしています。3000年の歴史がこのような凄まじい表情を作り得ているのでしょうか。
「えへへ、中々いいでしょ!」
 にっこり笑って獏良くんは言いました。なんて怖いもの知らずなんでしょうか! だって、バクラの髪は、滑らかな素材の真っ赤なリボンでオッシャレーに、乙女チックにセットされているのです。あまつさえ、真っ赤なリボンは白っぽい髪に映えているのです! ああ、なんて事……!
「オレ様を誰だと思ってんだ」
 バクラは低くくぐもった声で言いました。大地を、大気を震わせる声です。
「居候でしょ? あはは! 紅茶紅茶〜、っと」
 獏良くんはバクラに応じると、くるりと踵を返してキッチンへ戻っていきました。獏良くんの頭から抜けたような笑い声で、バクラのヤる気は萎えてしまいました。いえ、それで良かったのだと思います……。しゅるしゅると真っ赤なリボンを解くと近くにあったゴミ箱へと投げ捨て、バクラはキッチンへ向かいました。
 湯気の立ち上るカップを手に獏良くんが倖せそうに笑って、テーブルに肘を載せていました。バクラに台形を示したかった訳ではないようです。
「あれー、取っちゃったの? 似合ってたのに」
「…捨てた」
 ぼそりと言って、バクラは再び獏良くんの前の椅子に坐りました。同時に獏良くんが席を立ったので、バクラは怒らせたのかと思い、獏良くんの顔を窺いました。残念ながら、表情からは明確な意思を汲み取る事が出来ませんでした。獏良くんは新しいカップに紅茶を注いでいます。そしてバクラの前に新しく紅茶を注いだカップを静かに置くと、にっこりと笑いました。ミルク・ティのまろやかな香りが湯気と共にバクラの嗅覚を擽ります。
「おう」
 紅茶から湯気が出来上がる所を見つめながら、バクラが言いました。ちょっと擽ったい気持ちのようです。
「明日、ゴミの日だから」
 にっこり笑顔で、獏良くんは立ったままミルク・ティを一口飲みました。
「は?」
 バクラはカップを持ち上げた所で手を止め、獏良くんを上目遣いに見上げて問いました。
「ゴミ出ししといてね、居候さん」
後にバクラは、『その時の宿主の恐ろしい顔は一生忘れられない』、こう語るとか、語らないとか――