【 忠実なる磯野編 】
 ここは、普段海馬家に仕える従業員が待機している部屋です。海馬社長に叱責されたばかりの磯野さんは、何と、職務中にも拘らず、ソファでうたた寝してしまっていました。
「…の。…その。磯野!」
「う…ん。……はッ! か、海馬サマ!!」
 自分の名前を呼ぶ声が聴こえて眼を醒ますと、傍に海馬社長が立っていました。これは、やばいのではありませんか?職務中にうたた寝したとあっては、海馬社長の機嫌如何によってはクビも覚悟しなければならないかも知れません。
「気持ち良さそうに、寝ていたようだな」
 ゆっくりと海馬社長が言いました。怒っていらっしゃるのでしょうか……?
「こっ、これは、…その!」
 にやりと口許を歪ませて海馬社長は笑いました。
「もっ申し訳ありません!すぐに職務に戻りますので!! く、クビだけはどうか…」
 がばっと躰を起こして磯野さんは頭を垂れました。まずはひたすら謝っておきたいのです、海馬家に仕える者は……。
「フフン。まあ、落ち着け磯野。オレは貴様を怒りにきた訳ではない」
 あれれ、海馬社長は機嫌が良いのでしょうか?心なしか表情も柔らかいように見受けられます。
「え…あ、ありがとうございます!」
 一瞬、ぽかんとした顔で海馬社長を見上げると、磯野さんはもう一度頭を垂れました。
「シッ! 静かにしろ磯野」
 すると、辺りを窺うようにして海馬社長が言いました。
「は、はい…」
 海馬社長に溺れているといえば溺れている磯野さんは、今回の磯野さんの失態を他の従業員等に知れ渡ってしまわないように、と海馬社長が取り計らってくれたのだと思い、じわりと目頭を熱くしました。
(海馬サマ…)
―― 駄目なんだ、ここでは静かにしていないと……」
 眼を伏せて海馬社長は言いました。
「はい」
(普段は厳しい方だけれど、海馬サマは優しい面もちゃんと持ち合わせていらっしゃる方なのだ)
 磯野さんはじーんと感動に浸ってしまっています。
「…磯野」
「はい、何でしょう?」
 磯野さんは海馬社長の好意に応えるべく、抑えた、しかし海馬社長には聴こえる声で訊ねました。
「い、磯野。その…」
 海馬社長は目線をあちらこちらに漂わせて呟くように言います。
「何でしょうか? 何でも仰って下さい」
(ふふ。慣れない事をして恥ずかしがっていらっしゃるのかな)
 普段とは違いはっきりと話さない海馬社長を目の当たりにして、磯野さんは微笑ましいと感じました。口調も事務的なものから柔らかいものになってしまっています。
「磯野…。オレは構わないんだ」
 海馬社長は磯野さんをちらりと見て言いました。
「何がでございますか?」
 サングラスの下の磯野さんの眼は、優しいものでした。
「オレは…お前に、お前に……妻子がいたとしても」
 海馬社長はもじもじと上着の裾を弄びながら言います。
「??? …はぁ」
(まさか、異動のお話だろうか?危険度の高いSPとか…)
「磯野の事が、その…好きなんだ」
 ぎゅ、と裾を握り締めて海馬社長が言いました。
「は、それは大変身に余る光栄です」
 磯野さんはにっこりと笑ってお返事しました。
「磯野…」
 ぱっと青い瞳を輝かせて海馬社長が磯野さんの名前を呼びます。
「海馬サマの下で働く者にとって、そう言って戴けるのはとても光栄な事です」
 磯野さんが続けると、先程輝かせたばかりの青い瞳を曇らせて、海馬社長は言いました。
「…磯野、違うんだ。オレの言う『好き』と貴様の言う『好き』は……」
「は…?」
 きょとんとして磯野さんは海馬社長を見つめました。
「だが、オレは信じている。貴様ならオレを理解してくれると……」
 青い瞳を潤ませて海馬社長が磯野さんを見つめます。
「え…理解、ですか」
「そうだ。オレの、この気持ちを……」
 海馬社長は長い脚でずいっと大きな一歩踏み出しました。
「海馬サマの、気持ち、ですか……」
 こくん、と可愛らしく頷いて、海馬社長はまた一歩踏み出しました。磯野さんはただならぬものを感じてソファをずり上がったのですが、一歩の大きい海馬社長はもう眼の前に。逃げようにも逃げようがありません。
「オレは……」
 海馬社長の青い瞳は一際潤むのでした。
「か、海馬サマ…」
「磯野……」
 す、と海馬社長の手が磯野さんの顔に向かって伸びました。そして、ゆっくりと、海馬社長の顔が近づいて……。
「いやあああぁぁぁ――!!!!!」


「…の。…その。磯野!」
「うう……? ―― ぅわあっ!!」
 磯野さんが自分の名前を呼ぶ声に眼を醒ますと、眼の前には心配そうに覗き込む海馬社長の弟、モクバくんの顔がありました。
「どうしたんだ?磯野。すごい魘されてたぞ」
「……あ、モクバ様」
 我に返ってみれば、磯野さんはびっしょりと汗をかいていました。
「…夜勤明けで疲れてるんだな。お前が居眠りするなんて」
 ふん、と息を吐いてモクバくんが眉根を寄せて腕を組みました。
「あ、あ、申し訳ありません! すぐに部屋に戻りますので!! どうか、クビだけは…」
 眼の前にいるのは心優しいモクバくんではありますが、彼のお兄様はあの、海馬社長なので……。海馬家に仕える者は、主にモクバくんの後ろ盾を恐れていると言って差し支えないのです。
「心配するなよ。兄サマには内緒にしておくから大丈夫だぜぃ」
 モクバくんは人差し指で鼻の下をこすって言いました。すると、がちゃりとドアの開く音がしました。
「どうした、モクバ。こんな早くから何をしている」
「あ…、兄サマ」
 まずいかな、と言った表情で、モクバくんは部屋に入ってきた海馬社長を振り返りました。
「か、海馬サマ…」
 明らかに怯えた表情で、磯野さんは海馬社長を凝視しました。
「フン。磯野、お前は夜勤明けだろう。仕事は終わったはずだ。ここで何をしている」
 海馬社長の青い瞳は、こんな時とても厳しく光るように見えるのでした。
「…あ、その」
 磯野さんは海馬社長が怖くてうたた寝してしまっていた事を打ち明けられません。
「さっさと自室へ戻るんだな」
 フン、と息を吐いて海馬社長が言いました。
「……はい、申し訳ありません」
 磯野さんはほっと胸を撫で下ろしました。そうだ、さっきのは夢の中の出来事なのだから、心配する事などないのだ。あんな事はあり得ない。うたた寝を咎められる事もなかったし、海馬社長の態度も普段通りだ。
「では、失礼致します」
 磯野さんは深々とお辞儀をしてドアへ向かいました。
―― そうだ」
 思い出したように海馬社長が言いました。磯野さんはびくりと肩を震わせました。
「磯野、次の勤務時間に社長室へ来い。大事な話がある」
 磯野さんが振り返ると、そこには僅かばかり眦を下げた社長が立っていました。
「ヒィィィ!!」
 恐怖のメータは一気に振り切れ、磯野さんは悲鳴を上げて失神してしまいました。ちゃり、と小さな音を立てて倒れた磯野さんのシャツの襟から転がり出たロケットには、三歳になったばかりの娘さんの写真が入っているとかいないとか……。七月になったばかりの、早朝の事であった。


―― グッド・モーニング、磯野さん!


「……何だ、こいつは」
 倒れた磯野さんを呆れたように見下ろして海馬社長が言いました。
「疲れてたみたいだぜぃ」
 眉を八の字にしてモクバくんが答えました。それから眠いのか眼をこすります。
「フン。…おい! 誰かこいつを運んでおけ!!」
 海馬社長が言うと、素早く数人のメイドがわらわらと部屋に入ってきて磯野さんを取り囲みました。
「モクバも部屋に戻れ。起きるにはまだ早い」
 海馬社長もお兄さんなのです。幽かに笑って言いました。
「はーい。お休み、兄サマ!」
 モクバくんは小走りで自室へ向かいました。
「…全く。後一週間でモクバの誕生日なのだぞ。よもや忘れているのではあるまいな」
 モクバくんを見送った後、一人になり静かになった部屋で海馬社長は呟き、ぎり、と歯軋りをして尊大に腕を組みました。磯野さんの明日は如何に。